誰しもあることだけれども、今現在だけでなく過去も含めた自慢話を話し、他人に対し自分を大きく見せようとすることがある。

私の考えでは駄目な奴程現状の問題点を棚上げした上で過去の自慢話に終始する傾向があるのだが、本日述べたい話とは異なるのでこれに関しては機会があれば後述させていただく。

自慢話を聞いていても何も楽しいことはない。仲のいい友人からの話ならばともかく、深い関係性のない人(以後、他人とする)からされるそれは、話を聞かされる側にとっては気を使って大袈裟に相槌を打つだけの、何も得るものは無い、無意味で不快な時間になる。他人の自慢話を聞かされる立場になったことのある人なら大なり小なり共感いただけるのではないだろうか。

誰しもが他人から自慢話を聞かされた時は不快な思いを感じたことがあるはずなのに、なぜ人は他人に自慢話をするのか。また、中には特に自慢話をしたがる人がいるのであろうか。

それは話して相手から返ってきた反応(多くの人は本心とは異なってもまるで心から賞賛しているかのように反応する、いわゆる仮初めの賞賛)が、自らの尊厳欲求が満たされることで味わうことの出来る満足感に繋がるからであろう。

・・・と私はこれまで考えていたのだが、リアルの関係性だけでなくSNS上のそれが増え他人と関わる機会が増えてきた昨今、新しい見解が生まれたのである。

確かに先に述べたように尊厳欲求を満たしたいという思いがベースになる事には違いないのだが、そこに至るまでのプロセスにひとつ潜んでいた事柄があるのではないか、と考えた。

それは、



CM②の後で。

はい、すみません。柄ではない真面目な文章を書いていたので少しふざけたくなったのです。好きな番組で毎回使われるフレーズでした。

話を戻します。

尊厳欲求を満たすためのプロセスに実は含まれていた事柄、それは「コンプレックスの払拭」である。

普段感じているコンプレックスを払拭したいがために、自慢話をして他人から仮初めの賞賛を得る。それが仮初めのものであり得られる満足感は一時的なものだと知りつつも、自らの精神状態を良好に保つために繰り返す。

なんとも情けない事象である。子どもの頃ならまだしも、困ったことにこれは厄介な大人にこそ多くみられる。

例え仮初めの賞賛で一時的な満足感を得たとしても、コンプレックスの解消、問題の解決には全くもって繋がらない。

本当に尊厳欲求を満たしたいのであれば、自慢などせずに自分のコンプレックスと向き合い(書くのは簡単だけど実際向き合うのは大変泣)、それの解消に向けて努力していくべきなのである。

すぐには結果が出なくても、その努力する姿に胸を打たれ応援してくれる人は多からずも必ずいるはず。地道な努力は大きな身を結び、いつか仮初めではなく本当の意味で他人から賞賛され、それが真に尊厳欲求を満たすことに繋がる日もいつか訪れるであろう。
心がけひとつで人は変わることが出来ると私は信じている。

少し逸れました。

つまり私は自慢話というものは極力するものではなく、どうしてもしたい時は他人ではなく仲のいい友人に「不快な思いをさせてしまうかもしれないから誰にでもは話せないのだけれど、君と僕の仲だ、どうしても話したいからちょっと時間をくれよ。」というスタンスで話すものであり、それを聞いた友人には「そりゃあすごい。君もやるねえ、僕も負けないように頑張るよ。」と受け取ってもらえるように話すべきものであると考える。


咆哮